「熊谷連隊区司令部 関東地方震災関係業務詳報」の発見について

渡辺延志 (ジャーナリスト)

熊谷連隊区司令部の報告書
100年の歳月を経て出現した報告書。虐殺の実態や在郷軍人会の動きが記録されていた
※クリックすると拡大します。

・はじめに
 関東大震災にあたり、どのような活動したのかをまとめた陸軍内の報告書1通が防衛省防衛研究所資料室に眠っていました。埼玉県にあった熊谷連隊区司令部がまとめた報告書です。これまでに見つかったことのない種類の資料であり、その内容を紹介します。
 1923年9月1日に発生した関東大震災では、横浜や東京の被災地で、1日から3日にかけてを中心に多くの朝鮮人や中国人が虐殺されました。埼玉県は震災による被害はさほど大きくはありませんでしたが、本庄、熊谷、神保原など県北部の旧中仙道沿いの町村を中心に4日夜から虐殺が行われました。東京から避難したり、保護されたりした朝鮮人をまとめて群馬県に移送しようとしたのに対して、その集団に自警団などの民衆が襲いかかったもので、その後の裁判記録などを通して、虐殺を実行した中には多くの在郷軍人が含まれていたことが明らかになっています。
 連隊区司令部は徴兵や在郷軍人の管理を業務とした陸軍の役所でした。激しい虐殺の現場となった地域を管内とし、在郷軍人の管理を業務としていた熊谷連隊区司令部が陸軍省に提出した報告書というのが、この資料の基本的な性格です。虐殺の当事者といえる立場の役所のまとめた報告書であり、これまでに見つかったことのない種類の公文書です。
 読み進めると、東京方面から続々とやってきた避難者によってもたらされた流言によって地域の人々が不安をつのらせ、虐殺へと至る経緯や、虐殺の実態がどのようなものであったかが浮かび上がってきます。それと同時に、そうした事態を陸軍の当事者がどのように認識していたかが伝わってきます。さらに、この報告書がなぜ作られたのか、その過程をたどることで、陸軍や政府がどのように一連の事態を総括しようとしていたかが浮かび上がってきます。


・資料の概要
 「大正12年12月15日」と日付があり、表紙を含めて102ページ。手に取り観察した結果、謄写版製と考えられます。「熊谷連隊区司令部歴史」との題がある簿冊に綴じられていました。この資料はアジア歴史資料センター(https://www.jacar.go.jp)のホームページで、「熊谷連隊区司令部歴史」のキーワードで検索すると見ることができます。
 連隊区司令部は徴兵業務や在郷軍人の管理を担当した陸軍の役所です。熊谷連隊区司令部は宇都宮に本部を置いた第14師団傘下の組織で、埼玉県の西半分にあたる大里、児玉、秩父、比企、入間の5つの郡を管轄していました。日露戦争後の師団の増設に伴い1907(明治40)年に大里郡熊谷町(現・熊谷市)に設置され、歩兵第66連隊(駐屯地・宇都宮)を中心に兵を供給する役割を担いました。第1次世界大戦後の軍縮の流れの中、歩兵第66連隊とともに1925(大正14年)に廃止されました。
 連隊区司令部には在郷軍人会の事務局が置かれていました。連隊区司令部司令官(大佐)は在郷軍人会の支部長を兼務していました。支部の下に郡単位で連合分会があり、町村単位で分会があるという組織でした。
 なお埼玉県東部の4つの郡は東京を本拠とした第1師団傘下の本郷連隊区司令部の管轄でした。
 その廃止にあたり、発足以来の事績を「熊谷連隊区司令部歴史」として冊子にまとめ陸軍省に提出したものと考えられます。「詳報」はその「歴史」に添えられた「別冊」と題した簿冊に含まれていました。「別冊」は関東大震災関連の資料をまとめたもので、ほかには震災直後に発行された在郷軍人会熊谷支部の「支部報・震災特集号」が綴られていました。
 「詳報」の構成は参考資料1として巻末に示しました。
 支部報の内容については2021年に刊行した拙著『関東大震災「虐殺否定」の真相』(ちくま新書)で紹介しています。


・埼玉県における虐殺
 埼玉県における朝鮮人虐殺の実態は、震災の50周年に当たり組織された「関東大震災50周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会」により調査され、その結果が1974年に『かくされていた歴史』として刊行されています。同委員会はその後も活動を続け、60周年にあたり証言や体験談を追加した「増補版」を刊行しています。
 それによると、確認できた朝鮮人犠牲者は最低数193人であり、「証言には出てくるが確認にはいたっていない数」が30~47あり、総計を223~240人としています。警察署内に保護されていて襲われるとか、警察によって移送される途中の朝鮮人が虐殺されたのが埼玉県の特徴です。
 「熊谷連隊区司令部歴史」は関東大震災を大正12年9月1日の項で次のように記しています。

熊谷連隊区司令部歴史
熊谷連隊区司令部歴史の9月1日の項。「不祥事件」の文字が見える
※クリックすると拡大します。

 「京浜を中心とする峻酷なる大震は突如として起り、続て火災となるや各地の騒擾(そうじょう)真に名状すべからざるものありて、四日当管内に戒厳令を布かるるに及びてもなお流言浮説の為め人心恟々(きょうきょう)、遂に四日夜来、中山道の各地に不祥事件を見るに至り、救護と自警と鎮静に部内を挙げて努力したるの経過は別冊詳報の如し」(0587)

 埼玉県北部の中山道沿いの地域での虐殺は4日夜に始まりました。それに先だち、神奈川や東京で虐殺が行われており、「騒擾」とはそうした事態を指したていると考えていいでしょう。そのうえで、管内での虐殺を「不祥事件」と表現しています。この視点は一貫しており、「不法行為」「法に触れる」といった言葉がしばしば登場します。
 なお、資料の原文はカタカナ表記ですが、読みやすさを考えて平仮名に直し、漢字の字体や仮名遣いは今日のものとし、必要に応じて句読点を補いました。文末の数字は資料にふられたページ番号です。


・「詳報」が記録していたこと
▽「一、一般の状況」は次のように当時の事情を説明しています。

 「九月一日、突如として起こる峻烈なる震動に無限の恐怖を感じたる民衆は、身を付近の安地に求めて蝟集(いしゅう)し、人心恟々、遙かに東都の天空に炎燄(えん)として冲(ちゅう)する怪雲を望みつつ屡々(しばしば)襲う余震に不安の一夜を徹するや、二日以降、流言蜚語随所に顕滅し、正午来陸続として来る避難者によりて巷間の浮説を裏書せらるるものさえあり、加うるに各新聞は事実の真偽を顧みるの遑(いとま)なく、また人心の反響は何らこれを考慮するの念なく、競ってその号外に奇驚の惨事を掲げて、以て虚報す。しかも鮮人の暴挙と襲来はかえって官憲より伝えらるるに至りては、何ぞよく意馬心猿の民衆を鎮めて訛伝(かでん)を防遏(ぼうあつ)するを得んや」(0702)

 埼玉県に流言が広がる過程が示されています。その最大の原因は新聞であったとの認識が伝わってきます。「官憲より伝えられる」とは、埼玉県の内務部長が2日に各郡役所に伝えた「通牒」を指すものと考えられます。電話で伝えたために、残っている文面は郡によって異なりますが、「東京において不逞鮮人各所に彷回し盛んに放火をなし、毒手を地方に振るわんするやの虞(おそれ)これあり候につき、町村当局者は在郷軍人分会、消防手、青年団等と一致共同して、その警戒に任じ、一朝有事の場合には速に適当の方策を講ずる」との内容。郡役所を通して各町村に伝達され、朝鮮人虐殺の根拠となった、煽動することになったと指摘されてきました。
 続けて、次のように述べる。

 「官憲の期待せし所謂(いわゆる)民衆警察・自警団は忽(たちま)ち各町村に勃起し、兇器を携えたる群衆は百鬼夜行も啻(ただ)ならず、警察の威信早くも地に墜ちて、これを罵倒するものさえあり」(0703)

 「民衆警察」とは米騒動(1918年)を教訓に、警察官僚が組織化を進めていたもので、実行力のある地域の団体を警察に協力する組織にまとめようとの狙いで、在郷軍人会、青年団、消防組などに働きかけていました。震災では自警団が迅速に立ち上がり、その構成は警察が意図・準備した「民衆警察」と同じでしたが、自警団がとった行動は警察官僚の意図とはまったく逆に、治安を乱す狂暴なもので、警察の指示に従わないものだったと指摘しています。
 そのうえで、以下のように主張する。

 「軍縮を唱えたる声は、今や軍隊応援要を叫ぶに至り、群衆の妄動、軍隊の外何者と雖も鎮圧する力なきを感ぜしめ、物情騒然、動乱の光景、名状すべからざりき。
 当部(熊谷連隊区司令部)は事態の推移容易ならざるを察し、勉めて冷静、部内の部員を挙げて民心の鎮静に努力すると共に、管内在郷軍人を指導して流言の防止に各種宣伝を行い、彼等の自重を促し、以て当面の鎮撫と救護に任ぜしめ」(0703)

 軍縮の流れの中で厳しい環境にあった陸軍ならではの視点ですが、「軍隊でしか沈静化できない」という深刻な事態であったことは、この資料を読み進めると偽りのない事実であったと理解できます。

 ▽「二、行動の大要」は、在郷軍人会熊谷支部がどのように行動したかを記録しています。

 2日は朝から避難民により東京方面の被災状況が伝わり、さらにこの日、鉄道が運行を再開すると「京浜方面の惨状は刻一刻詳報せられ、同時に不逞鮮人に対する流言蜚語もまた深刻に伝えらるるに至れり」という状態になった。(0707)

 3日午前には、連合分会長らを集めて会合し、3項目の指示を与えています。被災者の救護と町村の自警が任務であるとしたうえで、第2項目では以下のように呼びかけています。

 「不逞鮮人その他の侵入が針小棒大に流言せられつつあり。何(いず)れも訛伝なり。而してこれらの検挙は警察官の当然任ずべき職務なるを以て、吾人は匪徒の鎮圧に助力を乞われたる場合に始めて応ずべきものなり。その他は一般に町村の火災、盗難等に対する自警を専らとすべきこと」

 3日という段階において、流言は事実ではないと認識し、「不逞鮮人」対策は在郷軍人会の職務ではないことを呼びかけていたのです。
 それに続けて「人心鎮撫に努む」として印刷物を配布したことを記録しています。連隊区司令部、在郷軍人会熊谷支部としては、流言の打ち消しと、民心の平静化に懸命に努めていた事情が見えてきます。関東大震災における戒厳令をめぐっては「朝鮮人に対する宣戦布告であった」とのとらえ方がありましたが、埼玉県に戒厳令が布かれたのは4日のことであり、その段階ではすでに戒厳令の目的が朝鮮人対策ではなかったであることと考えることができます。東京は2日、神奈川は3日、そして埼玉と千葉は4日に戒厳令が布かれますが、時期によって、地域によって戒厳令の狙いは異なっていたのが実態であったと考えることができるのではないでしょうか。

 ▽「鮮人殺さる」
 「同日(4日)、浦和方面より熊谷町に移動、護送し来りたる鮮人二百名中、その百数十名は、警察官並び熊谷町分会員等に保護せられ自動車に依り深谷及び本庄警察署に護送せらる。而して昼間、護送すること能わざりし四十幾名は、夜に入ると共に殺気立てる群衆の為めに、久下、佐谷田及び熊谷地内に於て、悉(ことごと)く殺さる。本庄警察署に向いたるものまた同じ。深谷警察署に向かいたるものは幸いにして無事保護せられるに至りたり」(0710)

 「殺気立てる群衆」と「悉く殺さる」の文字がひときわ目をひきます。
 その間の連隊区司令部の動きを、以下のように記しています。

 「三日夜来、部員越智中佐、副官岩田大尉は、熊谷警察署長、大里郡長等と会合し、護送鮮人保護に関する協議に与(あずか)り、軍隊招致の件等を勧告したりしも、当時、交通機関の不備と警察力の微弱なりしと及び狂熱的群衆心理の勃発とは遂にかくの如き不祥事を瞬間的に生ずるに至りたり」

 連隊区司令部としては努力したのだが、民衆の動きをおしとどめることはできなかったという事情が記されています。5日夕に歩兵第32連隊(山形)の兵士26人が熊谷に到着。7日には歩兵第7連隊(金沢)の5つの中隊が到着しました。戒厳令が布かれても、軍隊が迅速に進駐したわけではなかったのが実態だったようです。

▽「十二、情報宣伝に関する件」は、この間に、連隊区司令部や在郷軍人会が配布した宣伝文書を収録し、事態の推移を伝えています。
 「九月八日に各分会に配布せし訓示」(0745)は在郷軍人会熊谷支部長名のもので「今や官民並び各団体との協力により秩序漸く鎮静せんとし、加うるに軍隊と配備と共に、分会の担当せし警備はこれを大に軽減するを得て、専ら力を罹災者救護に……」として、軍隊の配備により、事態が沈静化したことを物語っています。

▽「警備及び救援」(0730)
 各地の分会や連合分会がどのような活動をしたのかを記しています。

 「郡内に居住せる鮮人約120名に対し、警察官と協力して、これに完全なる保護を与え、流言は一部人士の為めにする宣伝なる旨を示達して民心の鎮撫に努め」(比企郡連合分会、0732)

 児玉郡連合分会などの報告からは、「不逞の徒」が2日に埼玉県庁に侵入したという流言が流れていたことがわかります。流言は東京から伝わっただけでなく、埼玉県内でも独自に発生していたようです。

▽「功績者」(0760)
 東京から避難して来た被災者の救護や、上京してのボランテイア活動などで功績のあった個人や分会が顕彰されています。「流言の防止に努めた」「違法者を未然に防止」「鮮人を保護収容する任を完うしたる」などの功績が記されています(0769)。
 こうした分会の活動報告から見えるのは、避難する被災者救援の目的で大勢の人々が近隣の町や村から鉄道の駅周辺に集まっていたことです。握り飯などの食事を用意したり、収穫の時期だった梨を携えたりして集まり、競うようにしてボランティアが展開されていたようです。集団的な虐殺の現場はいずれも鉄道の駅の近くであり、そうした場所には相当な数のボランティア(≒震災に関心の高い比較的若い人たち)が集まっていたと考えることができそうです。善意と殺意はおそらく表裏一体だったのだろうと思わせるものがあります。寄居町分会の副会長は「その地警察分署内に於て鮮人に対する不祥事件発生したるに拘わらず、町民並びに分会員より一名の違法者を出さざることに最も与りて力ありたる」と評価されており、虐殺に加担したのが他の町村から人々であったという事情をうかがい知ることができます。

▽「十五、将来参考となるべき所見」
 「二、流言蜚語防止に就いて」(0795)
 まず「イ、真相を速に伝達するの手段を講ずること」をあげ、以下のように記している。

 「流言蜚語を信ずるに至るは、状況の不明なるによる。よって当局は速に真情況を付近一帯の地方に知らしむるを要す。これが手段として飛行機等により、速に印刷物を撒布するを要す。当時、東京方面より避難民その他により種々の情報伝わりたるも、吾人はむしろ誇大なりとし割引をなして聞き居りたりしが、当地新聞記者等が停車場、銀行前、警察署前等に、第一、第二情報として時々発表せし情報中には「目下東京市中には不逞鮮人横行し、各所に放火し、あるいは掠奪し、あるいは爆弾を投じ、あるいは新聞社を襲撃し、社員辛うじてこれを撃退せり」とか、また「名古屋、京都、神戸もまた大火災をおこせり」等のものもあり、吾人は新聞の平常を知るを以て、極力これが打消しに勉めたるも、何等これを打消すに足るの根拠ある材料を有せざりしことを遺憾とせり」

 新聞が何をしたのかを具体的に伝えています。震災の研究が始まったのは、戦後もしばらくたった震災40周年が契機でした。それが本格化したのは50周年の1973年であり、その当時になると、新聞は残っているものの、震災の混乱の中で作られた号外の類は追跡が難しくなっていました。新聞が当時、どのような活動をしたのかをこの記述は教えてくれます。
 続けて「ロ、軍隊を速に広範囲に配置するを要す」として、次のように述べている。

 「民衆警察を標榜し来りたる警察官吏の威信は当時、全く地に墜ちたるが如く、民衆はむしろ軍服を着用せる在郷軍人に信頼するの異観を呈したり。而して九月五日歩兵第三十二連隊に属する岩下歩兵中尉以下僅に二十五名の兵員来着し、一部を深谷に、主力を熊谷に置くや、人心とみに安定し、曰く「兵隊さんが来たから、もう大丈夫」と当時、いかにこの兵隊さんなるものが一般民衆の信頼を受けたるかを想像し得べし。また当時最も混乱の状態にありし停車場の秩序を維持し得たるものは警官のサーベルにあらずして、この兵隊さんの銃剣の尖にありしなり」

 流言やそれによる社会の混乱を伝えています。

 「三、自警団に関する件」(0798)
 まず「1、在郷軍人会は独立して行動せしむるを要す」として以下のように指摘している。

 「震災当時、多くの町村は軍人分会、青年団、消防組を以て自警団を組織し警戒に任ぜしが、鮮人襲来、強窃盗の予防等に対しては青年団、消防組はほとんどその用をなさず。かえって在郷軍人の行動を掣肘せしのみならず、冷静沈着を欠ける結果、常規を逸し国法に触るるが如き者も生ずるに至りたり」

 ついで「2、事変に際し活動する在郷軍人には悉く軍服を着用せしむるを要す」として、次のように述べている。

 「鮮人虐殺に関係したる在郷軍人は当時、軍服を着用して、分会旗の下に活動したるもの中には一名も無く、悉く和服、もしくは消防服を着けたる者のみにして、且つ未教育者に多し」

 在郷軍人の制服は自弁で調達するもので、ある程度経済的に余裕のある会員しか持っていませんでした。検閲の時にも着流しのような姿で見苦しいとして、満期除隊者に制服を支給する制度が1921年に始まりましたが、震災の段階ではまだ普及していませんでした。また支給したのは綿製の夏冬兼用の上下で、在郷軍人会の機関誌などを読むと、相当に粗末なものだったようで、着用率は上がらなかったようです。
 また「未教育者」の文字が見えますが、これは「補充兵」を指すと考えられます。震災の翌1924年4月段階の帝国在郷軍人会の集計によれば、熊谷支部の正会員は総数3万5559人でした。内訳は佐尉官が224人、准士官が38人、下士官が709人で、兵卒は、既教育が1万6253人、未教育が1万8335人となっています。
 在郷軍人会の会員は軍隊での勤務を経験した予備役・後備役の兵であったことは容易に想定でき、「既教育」とはそうした人たちを指すと考えられます。しかし、そのほかに「未教育」の会員もおり、それは徴兵検査に合格し入隊が決まりながら、定員(予算)の都合で入隊しなかった「補充兵」を指すものと考えられます。「国民皆兵」の建前のもと、20歳になると男性は全員徴兵検査を受けましたが、合格者全員を兵隊にするほど日本は財政的に豊かではありませんでした。実際に兵役に就く人は抽選で決められ、合格者の5%程度であったとされています。そのようにして服役が決定しながら、受けいれる連隊の定員(予算)の都合のため、実際には入営しないで終わった人たちがいました。それが「補充兵」なのです。在郷軍人会で最も多かったのは、軍隊勤務を経験したことの補充兵だったのが実態でした。在郷軍人会の会員とはいえ、その経験や背景は様々であり、決して一枚岩の組織ではなかったという事情が浮かんできます。また震災の記録を読むと、「帰休兵」という肩書きも目に付きます。入営したものの、定員の都合のために家に帰された兵を指します。

▽「3,非常事変に際しては連隊区司令官に簡抜せる在郷軍人を指揮し、所在兵器を使用し得るの権能を有することを法文を以て制定し置くを要す。
 今次事変に際し、刀、鎗、銃器、棍棒、竹槍を携帯せる数百ないし数千の群衆に対し、全く指揮権なき者が兵器を有せざる分会員を指導して警察官を援助して憐れむべき鮮人を保護せんとせしも、十分の効果を来さざりしを以てなり」(0800)

 「数百ないし数千の群衆」の文字が目を引きます。連隊区司令部は在郷軍人の管理を業務としているが、在郷軍人を動員する法的な根拠も武器もないので、どうしようもなかったという事情を述べています。

▽最後に「4,鮮人虐殺に関する件」として次のように述べています。

鮮人虐殺に関する件
報告書は最後に朝鮮人の虐殺に言及。当時の事情を説明している
※クリックすると拡大します。

 「鮮人護送は絶対に夜暗を避くるを要すことに就て、部員中佐予(かね)て当事者に警告したるにも拘わらず、当時、交通機関の不備その他の齟齬よりして、夜に入り護送せざるべからざるに至りしものは悉く暗所において殺さるるの惨状を見るに至れり」(0800)

 夜になると不安感や危機感が募るといった心理的な側面もあるのでしょうが、大正時代の歴史を振り返るとそれだけでない事情がみえてきます。当時は米騒動にとどまらず、民衆による暴動は決して珍しいことではありませんでした。政変があると東京では集会が暴動に発展し、政府寄りの新聞社が焼き打ちにあうのは恒例のようになっていました。そうした中でも、夏場の暴動を見ると、ほとんどが夜間に発生しています。冷房装置のない当時、猛暑の日中の活動には制約があったようで、夕涼みがてらに人々が集まり暴動に発展するというある種のメカニズムがあったようです。作家の児島襄は大正時代を描いた大著『平和の失速』のなかで、「一般に夏の暴動は夜に起こった」と指摘しています。


・「詳報」はなぜ作られたのか
 この記録で目に付くのは、目次のページで「4、航空 ナシ」「6,補給 ナシ」といった具合に「ナシ」と記された項目があることでした。
 あらかじめ定められた書式があり、それに従って作成した文書であろうと考えて探すと、陸軍省の公文書を綴じた記録である「陸軍省大日記」の中に、「関東地方震災関係業務詳報提出の件陸軍一般へ通牒」という11月2日付の文書を見つかりました。

陸軍省副官の通牒1
陸軍省副官の通牒2
陸軍省副官の通牒。震災にかかわった全部隊・部署に報告書の提出を求めている
※クリックすると拡大します。

 関東大震災に関わったすべての部隊や組織に活動報告書の提出を求める内容で、作成の目的を「陸軍省に於て編纂すべき関東地方震災に関する記録の資料に供する外、将来の為諸般の参考に資するに在り」と目的を示したうえで、作成方法を具体的に指示している。「一、一般状況」「二、行動の大要」に始まり「十五、将来参考となすべき所見」まで項目に分けて、「暦日を追いて」記載すべきと命ずるもので、熊谷連隊区司令部の「詳報」もその指示通りに作成されています。
 「通牒」の差出人は「陸軍省副官」とあります。陸軍省副官とは大臣官房に属する職員を意味し佐官と尉官で複数人存在しました。大臣官房の中で、スケジュールの管理といった大臣個人に関する業務は「秘書官」が担当し、それ以外の陸軍省に関する業務を担当するのが「副官」でした。「通牒」の差出人の中村孝太郎大佐は「高級副官」と呼ばれる筆頭の副官で、他の省庁の官房長に相当する役職でした。
 アジア歴史資料センターで公開されている資料では、本冊、別冊とも表紙の次のページが墨塗りされています。機密事項や個人情報が記されているとは考えられない場所であり、不思議でした。
 実物を手に取ると、そこには白い紙が貼られており、それをめくると、「昭和33年4月米政府返還旧日本軍記録文書等史料経歴票」という印刷物が貼られていました。 
「史料の入手経路」として、活字で以下の様に印刷されていました。

 「本資料は大東亜戦争中、米軍が直接戦場で鹵獲(ろかく)し、または内地進駐後、陸海軍諸機関から押収した記録文書の一つであって、長くワシントン郊外フラニコニヤ等の記録保管所に保管されていたが、米国務省に対する日本政府の返還要求に応じ、昭和33年3月日本側に引渡され、同年4月横浜着、同年10月指定保管責任庁たる防衛研修所戦史室の手に帰したものである。
 防衛庁防衛研修所戦史室長
 防衛庁事務官 西浦進」

 戦場で鹵獲されたとは考えられない資料です。陸軍省に保管されていたものなのでしょう。それが敗戦時の焼却を免れ米軍が押収した。機密とは思えない資料なので処分しなかったのかもしれません。空襲が激しくなると陸軍省では古い記録類を地方に疎開させたとされており、そうした事情によって残った可能性も考えられそうです。


・「詳報」から何を読み取るのか
 ▽埼玉県における虐殺の実態
 これまでも虐殺の中心となったのは自警団などの民衆であり、在郷軍人が多数含まれていたことが分かっていました。そのために在郷軍人会を虐殺の当事者と見なし、「官憲の意図」を受けたものと見る視点が有力でした。
 しかし「詳報」の記録を読み進めると、在郷軍人会は流言が事実でないことに早い段階で気づき、事態の沈静化に組織を挙げて動いたこと、同時にそうした組織の意向、統制に従わない在郷軍人が多数存在し虐殺に走ったとの姿が浮かび上がります。
 今年公開され話題となった映画「福田村事件」では在郷軍人が大きな役割を担っていました。軍服姿の在郷軍人会の分会幹部たちが虐殺を主導したように描かれていましたが、少なくても「詳報」の舞台となった埼玉県西部では、軍服姿の幹部たちは懸命にそうした「違法行為」を防ごうとしたが、流言により不安を極度にまで高めた群衆を押しとどめることが出来なかったといような構図が実態だったと考えられます。

▽連隊区司令部の視点
 在郷軍人の管理、統制のできなかった連隊区司令部が、責任逃れに描いた図式という見方もありえますが、在郷軍人会熊谷支部が配布した多くの印刷物を読み進めると、そうした観点を排除することができるのではないでしょうか。在郷軍人をどうにか沈静化しようと毎日のように印刷物を作っていました。謄写版で作ったのでしょうが、相当な作業だったはずです。
 そもそも在郷軍人の監督、統制は、この当時、陸軍内で大きな課題となっていました。 
 農村部では小作争議が盛んになっており、在郷軍人会には地主も小作人も参加しており、統制上の懸案となっていていました。大正デモクラシーの社会的風潮のなかで、選挙権を求める動きも強くなっていました。一定額以上の納税をした人だけに選挙権は与えられたのですが、納税と並ぶ国民の義務である兵役を終えた在郷軍人にも選挙権を与えるべきだとの声が強くなり、政治活動を禁止する在郷軍人会の懸案となっていました。
 在郷軍人会は財政的な基盤が脆弱でした。特定の勢力の支配を避けるとの意図から寄付などは受け取らないことを原則としていたからで、「酒食を提供しないと行事への参加率が高まらないが、予算がない」といった悩みが機関誌の月刊『戦友』には散見されます。重複して加入していれば消防組など他組織での活動の重点を移す人が多かったと考えることができます。
 連隊区司令部は虚偽の記載をする必要がない立場だったとも考えられます。「不祥事件」を招いたのは、警察の責任、失態であるとの連隊区司令部の認識が報告書からは伝わってきます。震災から3か月を経た段階であり、おそらく陸軍における一般的な認識だったのでしょう。それを雄弁に物語るのは、翌年春の異動です。熊谷連隊区司令部の司令官は連隊長に転出します。明らかな栄転です。軍縮によりポストが大幅に減った環境にもかかわらず、その後、少将に進級し、旅団長の座にも就きます。熊谷での勤務の評価が陸軍内でマイナスでなかったことを示しています。責任を問われ本庄警察署長が即座に解任された警察とは実に対称的です。 

▽軍隊の配置状況
 深刻な事態に至る経緯も記されていました。流言は通常なら信じられない内容だったが、新聞の号外や県の通知やといったものによって信憑性が高まり、人々は不安を拡大し、広く信じられるようになった。これまでの研究では県の通知に重点が置かれていましたが、この報告では新聞の報道の影響が大きかったとの認識が伝わってきます。
 集まった民衆は数百から数千人という規模で、少数の警察官では対応が不可能だった。しかし、埼玉県に陸軍の部隊は存在しないため、治安の空白地帯となってしまった。そのため山形や金沢の部隊が到着するまで不穏な状態が続いたという経緯であったことが読み取れます。警察が機能を失い、軍隊が存在しないために、治安の空白地帯となったという環境は、流言と虐殺が最も早く始まったとされる横浜と共通しています。

▽「通牒」の出された段階
 陸軍省副官が「通牒」を発した11月2日とはどのような段階であったのかを考えてみましょう。
 10月20日に朝鮮人をめぐる報道が解禁されました。
 それまでに朝鮮人の虐殺は、特に悪質なものを除いて罪に問わない方針が決まっていました。
 10月25日をもって埼玉、千葉両県への戒厳令の適用が廃止され、最終的に11月15日に戒厳令は終了します。
 政府にとって残りの大きな懸案は、中国人の虐殺問題でした。東京の大島町で9月3日に、陸軍の部隊が量の中国人を虐殺していました。指導者の王希天は行方不明のままで、大杉栄のように殺害されたのだろうとの嫌疑が中国からは示されていました。朝鮮人虐殺とは異なり、中華民国との間で外交問題となろうとしていました。10月29日には内務省警保局長と外務省亜細亜局長が会談し、「隠蔽することが得策」だが、「頗る重要なので閣議か関連大臣の会議で決定する必要がある」との方針で合意。最終的に11月7日に首相を含む関係5閣僚会議で中国人虐殺を「徹底的に隠蔽」することを決定したことが外務省の記録から明らかになっています。

▽神奈川県知事の報告書
 今年9月に出版された『神奈川県 関東大震災朝鮮人虐殺関係資料』(姜徳相・山本すみ子共編:三一書房)によって、「朝鮮人と中国人に関する犯罪と保護状況について調査」について神奈川県知事から内務省警保局にあてた報告書が明らかになりました。この報告書は、10月27日付の警保局長からの通牒を受けて、神奈川県知事が11月21日付で提出したものでした。内務省警保局は全国の警察を管轄する役所で、今日の警察庁に相当します。
 「陸軍省副官」の通牒は、提出の期限を11月25日と設定していました。熊谷連隊区司令部ではその締め切りから20日遅れて提出したことになります。 
 熊谷連隊区司令部の報告書と、神奈川県知事の報告書は、時期的に重なっています。虐殺をめぐる政府の処理方針が定まり、戒厳令が終わるという段階に至り、陸軍と内務省(警察)は実態の調査に乗り出していたのです。そうして各地、各組織から集めた報告書をもとに、全体をどう総括するかが検討されたはずです。


・最後に
 100周年を迎えた今年、関東大震災における虐殺が国会などの場で取り上げられましたが、政府は「記録がない」との姿勢を繰り返しています。
 しかし、熊谷連隊区司令部の報告書は、虐殺に遭遇した当事者がまとめた公文書が政府の内部に眠っていることを教えてくれました。また、その調査を通して、存在を知った陸軍省副官の「通牒」は正本2通、副本12通の提出を求めていました。震災に関係したすべての部隊や部署、軍の各種学校などから、それだけの数の報告書が陸軍省に集まり、関係部局に配られたことを物語っています。在郷軍人を管理した連隊区司令部は首都圏なら東京の本郷と麻布、千葉の佐倉、山梨の甲府に設けられていました。それぞれが同様の報告書を提出したはずです。それぞれに管内における虐殺や在郷軍人の活動が記されていたはずです。熊谷が所属した第14師団傘下には、ほかに水戸と宇都宮、高崎に連隊区司令部があり、そこでも同じ様に報告書がまとめられたはずです。実際に動員された部隊となると、さらに広範囲で多数に及び、そうした関連したすべての部隊・部署で同じ書式の報告書が作られ、計14通ずつ陸軍省に提出されたことは疑いようがありません。膨大な報告が集められ、総括する作業が陸軍省で行われ、それは警察でも、司法省も行われていたはずです。外務省の記録には、「実態がどうであったかを知らなくては外交交渉をできない」と内務省に伝えたことがうかがえます。調査結果は外務省に伝えられでしょうし、首相も知らなかったとは考えられません。
 しかし、今日、確認できるのは、熊谷連隊区司令部と今年刊行された神奈川県ぐらいしま見当たりません。
 それは、なぜなのでしょう。
 ごく常識的に考えて、意図的に処分した結果なのでしょう。記録は存在しないのではなく、政府の意志と存在しないようにしたものだったと考えるのが合理的でしょう。外務省の記録は、中国人虐殺を「徹底的に隠蔽」することを、首相を含めた関係閣僚会議で決めたことを伝えています。「なかったことにする」のが政府の基本方針であり、それに沿って「記録がない」状態が作り出されたということを、熊谷連隊区司令部や神奈川県知事の報告書は物語っているのではないでしょうか。
 「熊谷連隊区司令部歴史」は震災とはまったく異なる系統の記録として編纂され、「詳報」はその別冊のなかに綴じ込まれていたことにより、処分を逃れて保管され、今日まで伝来したものと考えられます。
 偶然に残った記録だったのです。
 埼玉県における虐殺は、市民活動による証言や体験の掘り起こしが進められ、他の地域に比べて裁判に問われた被告が多かったという事情もあり、「何があったのか」は比較的わかっていました。しかし、なぜそのような事態に至ったのかとなると、不透明なままであるのが実状です。警察は震災の後に人員の増員に乗り出しますが、この経験を深刻なものと受け止めたからでした。陸軍も同じで、在郷軍人会熊谷支部の会報は「戦争の場合、動員等で混雑して居るとき、また敵の飛行機の都市襲撃を受けた時等に、同様の風説が流布せられ、そして国民が今度の様にうろたえたとしたならば、それは戦わずして、敵の間諜なり、共産無政府主義者なりに乗ぜられてしまうものと、云わざるを得ない」(0687)と指摘しています。
 陸軍にしても、警察にしても、中枢を担う幕僚や官僚たちは事態を深刻にとらえていたのです。そうした事情を背景に作られたのがこの報告書と考えることができます。そこから今日、私たちが何を読み取るのかが問われている。そんな気がしてなりません。


・参考資料1
「別冊」の構成
(アジア歴史資料センターで閲覧・ダウンロードできるファイルの構成を以下に示します。左端の数字は分割されているファイルの順を示し、右端の数字は資料にふられたページナンバーです)
1 「震災関係業務詳報」の表紙 0700
2  目次 0701 
3 「一、一般の状況」0702~0705
4 「二、行動の大要」0706~0719
5 「警備及び救援」0730~0742
6 「十一、各部隊建造物其他被害状況報告」0743
7 「十二、情報宣伝に関する件」0744~0759
8 「十三、業務遂行上特に功績ありたる者の氏名及び事績」0760~0790
9 「十五、将来参考となるべき所見」0791~0801



渡辺延志(わたなべ・のぶゆき)ジャーナリスト・作家
 2018年まで記者として朝日新聞に勤務し、主に歴史にかかわるニュースを扱い、青森市の三内丸山遺跡の出現、中国・西安における遣唐使の墓誌の発見などの報道を手がけた。『歴史認識 日韓の溝』(ちくま新書、第27回平和・協同ジャーナリスト基金賞受賞)、『関東大震災「虐殺否定」の真相』(ちくま新書)、『日清・日露戦史の真実』(筑摩選書)、『虚妄の三国同盟』『軍事機密費』(ともに岩波書店)などの著作がある。1955年、福島県生まれ。