釜山に住む文相洙さん(79)は解放前、日本の炭鉱で使っていた工具のドライバーを帰国後も60年間大切に保管していた。そのドライバーには10代の若き日に炭鉱で働いていた辛い思い出が滲んでいるからである。

文さんは福岡県鞍手郡笠松村の炭鉱で生まれた。父は1913年頃、17歳で日本に渡り、福岡県内の炭鉱を転々したという。「会社募集」や「官斡旋」による朝鮮から日本への大々的な強制連行が始まる1930年代末とは別に、1910年代に福岡県内のいくつかの炭鉱には労働者が来ていた。

文さんは子供のときに木刀を持った人が炭鉱夫を殴るのを何度も目撃している。11歳のときに支柱夫をしていた父は落盤事故で亡くなった。母は6人の子供を育てるために屑屋(くず鉄、古着、古紙などの回収)をしたが、それではなかなか食べていけなく、仕方なく炭鉱で働き始めた。

「後山」といって男が掘った石炭をトロッコに入れる仕事だった。小学校を卒業した文さんは、大阪の親戚にあずけられ旋盤工の見習いをすることになる。しかし、母と兄姉が心配で2年で福岡に帰る。

「坑内での仕事はしない」との条件で、坑外で行う「捲上げ」の仕事を受け持った。その時、機械の調整で使ったのがドライバーであった。戦争が激しくなるに伴い、朝鮮からの徴用者が日増しに増えていった。

「一日一人は死んでいた」と文さんは語る。日本が戦争に負け、祖国は解放された。その喜びもつかの間、炭鉱では「朝鮮人を警戒しろ。暴動を起こすぞ」との噂が広がった。それと同時に朝鮮から引き揚げてきた日本人が朝鮮人を襲うとの噂もあった。

炭鉱には朝鮮人を監視するために「やくざ」が多く雇われていた。身の危険を感じた文さん一家は近所の同胞たちと相談して直ぐに荷物をまとめ、博多港へ向かった。1カ月後、やっとの思いで釜山港へ着いたが、韓国語が話せない文さんの苦労は新たに始まった。

「日本での辛さを思えばどうにか耐えられた。このドライバーがそうさせてくれた」

60数年前に炭鉱で使った古いドライバーを見せながら話を終えた文さんは「これが役立つなら」と、当歴史資料館に寄贈してくれた。(羅基台:在日韓人歴史資料館研究員)

 
 
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