今年の3月、在日韓人歴史資料館に「東京大空襲の罹災証明書」が寄贈された。

寄贈者は栃木県小山市に住む南常子(77)さん。夫が罹災者だった。夫の南漢吉氏(1911年3月〜76年6月)は、忠清北道槐山郡出身で43年7月に村の青年30数人と共に東京・亀戸の日本通運で働かされた。

面から来た役人は「1軒に1人、日本で働く若者を出せ」と強制的に青年たちを集めたという。村の青年たちは「マルツウ(日本通運)」の寮で寝起きしながら、荷出しの人夫として働かされた。そして、45年3月10日の東京大空襲で同僚25人が死亡したという。

東京大空襲では死者10万人、負傷者11万人、罹災者100万人に達した。当時、東京に9万7千人が住んでいたとされる朝鮮人の場合、犠牲者の数はおろか、その被災の実態すらいまだ分からない状態である。日本人の場合は資料展示会や追悼会などが催され「語り継ぐ」必要性が強調されているが、朝鮮人については欠落しているのが現状である。

「東京大空襲・朝鮮人罹災を記録する会」から60周年にあたる昨年3月に、『東京大空襲・朝鮮人罹災の記録』という小冊子が発行された。80年代に体験者から聞いた証言を元に編集された。その中に次のような証言がある。

「今でも忘れられないことがあります。当時、洲崎に石川島徴用工の寮があり、そこには三百人あまりの同胞が寝起きしていました。逃亡を防ぐためだといい、出入り口には外から鍵がかけられ、常時監視されていました。大空襲当日、逃げようにも逃げ出せず、結局無理死にさせられてしまったのです」(9頁、金一満氏の証言から。当時25歳、江東区在住、故人)。

小冊子に収められた証言からは大空襲の恐ろしい惨状が生々と語られている。生き残った南氏は村の仲間6人と群馬県碓氷郡安中町の炭鉱で働くことになった。

解放後、南氏は故郷へは帰らなかった。「犠牲になった仲間の親に会うことは出来ない」と、日本に残ったという。

「恐ろしかった。死ななかったのが不思議なくらいだ。死んだ青年たちがあまりにも哀れだ」と南氏はよく夫人に語ったという。 (羅基台:在日韓人歴史資料館研究員)

 
 
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