母(オモニ)が慶尚道出身の多い桑名の地へと、単身、女の身で渡日したのは1928年だった。病める舅、夫、五歳の幼児を故郷に残してである。

母は働いた。昼は外に出て働き、夜は家で、天性の手先の器用さを生かして針仕事(パヌジル)に没頭した。三ヶ月後には数円の金を送金した。汗と血の滲む金だったが、故郷では日本を黄金の国と錯覚したのか、更なる送金を督促、だが、母はそれに応えた。

やがて、夫が、次に、長男を連れた舅たちが玄海灘を渡り一家の離散は終わった。ところが、口数の増えた分だけ家計は苦しくなり、別居で三年間生まれなかった子供が一人増え二人増えしていった。母は、しかし、「子供は天からの食い扶持付きの授かり物」だと歓迎した。

1933年、三男が生まれるときだった。母は70円の大金を工面してミシンを求めた。中古とはいえ、舶来の高級品だった。生産力は一気に拡大した。縫製は韓服から子供服や簡単な洋服にまで及び、仕立ての良さもあり、注文は絶えなかった。

ミシンは解放後のある時期まで一家を支え、子供たちを食べさせて学校へ通わせた母と好一対の働き者だった…
(エッセー『母とミシン』より、三重県桑名市・張洛書)

 
 
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