この綿糸で織った布(ミョンベ)は私の祖母(光山金氏金且分・1894.7.10〜1979.8.1)の手づくりの遺品である。綿の果実は熟すと開 裂して白毛に包まれた種子塊(綿花)を露出する。これが木棉(きわた、もめんわた)である。それを糸につむぎ手機(てばた)で布帛に織ったものである。
いまはみな機械が代役をしているが一昔前までは全工程が手仕事でその骨の折れる労働は「機織女(はたおりおんな)」の別名があるように女性が荷った。この一昔前の朝鮮女性、祖母の汗の結晶ともいうこの綿布一反がなぜ在日の私の家にあったのか。
私 の家族は長男の父が1931年に渡日して以来、父の故郷の慶尚南道咸陽と東京の双方に家族が分かれて住んでいた。当然往来は頻繁で祖母、叔父、叔母がわが 家に同居することもたびたびあった。そのときいつも朝鮮の素朴な生活用具が持ち込まれていた。薄くて畳二帖ぐらいもある大きな布団、派手な刺繍のある長方 形の枕、綿白色のチマチョゴリ、亜麻色をした麻(サンベ)の夏服、こうした衣類に糊をしてアイロンをかけ布地の形を整えてこわばらせる面倒な作業も祖母の 日課のひとつだった。
祖母の使う日用品、覚えているのは船型の護謨靴(コムシン)、足袋(ポソン)、櫛、髷に挿す銀のかんざし、髪油などみな日本のものと違っていた。民族性とはこういうものだと思う。
その祖母が最後に来日したのは1944年の夏であった。叔母の婚姻についての相談に来て7、8カ月余り滞在して解放の少し前、叔父叔母など家族を引き連れて帰国したが、その最後の来日のときもって来たのがこの綿布であった。
当 時の日本の衣料品はスフや人絹を素材にした粗悪品ですぐ破れたり、雨に濡れたら縮んでしまった。そうしたなか、祖母の手づくりのこの綿布はわが家にとって 貴重なものであった。父は国防色に染めて国民服をあつらえた。私も学生服を作ってもらった。しかし、丈夫で長持ちはいいがごわごわして着心地はあまりよく なかったように思う。
こうしたミョンベ、サンベの衣服はたくさんあったが、使用されたものはその人の死と共に消滅するようである。この綿布が60年を経て今日まで残ったのは加工されずそのまま反物であったからだ。(姜徳相:当館館長・滋賀県立大学名誉教授) |