在日本大韓民国民団は創立60周年をむかえようとしている。在日本朝鮮居留民団(以下、民団)、つまり今の民団の直接の前身となる組織が設立された のは、1946年10月。解放から1年が過ぎていた。会議録中の言葉を借りるなら、「焦燥」と「疑訝」の中で過ごさざるをえなかった1年。依然として南北 朝鮮はアメリカ・ソ連の影響下に置かれていた。

この会議録は30頁たらずの史料ではあるが、50年以上も前の簡潔な記述のなかから、今日までの変化の大きさが改めてうきぼりとなってくる。

い までこそ日本社会における「定住」や「共生」は当然のように語られるようになったが、解放後から近年まで、そうした発想は一般的とはいえなかった。会議録 中の「宣言書」には、「当分の間は日本に在留するのを余儀なくされている」、あるいは「われら同胞が帰国するまで」といった文言がみられる。

こうした認識は民団サイドに限ったものではなかった。特に解放直後は「帰国」が選択肢として強く念頭に置かれていた。名称に含まれる「居留」という表現にも、それが反映している。

ま た、民団が最優先課題として掲げたのは「民生安定」であった。故郷へ戻った「海外帰還同胞」や日本の「在留同胞」が深刻な生活難に直面していること。よっ てたつべき「本国」による救済を待てないほどその窮状が切迫していること。こうした眼前の現実をふまえ、会議録の報告や「宣言書」ではこう訴えかける。 「本国でこの事情を解決できない場合は海外にある僑民自身が着手しなければならない」、あるいは「ひとえにわれらの問題を解決する者は、ただわれら60万 同胞自身あるのみ」−会議録中にしばしば「自治」という語がみえるが、そこににじむ思いの一つはおそらく、こうした決意ではなかったか。

この会議録につづられた草創期の問題意識にてらしたうえで、民団の歩みに対する検証が改めて必要となるだろう。(宮本正明:財団法人・世界人権問題研究センター専任研究員)

 
 
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